top of page

03  Lion & dragon 1

「どうしたの?」

 少女が心配そうに少年の顔を覗き込む。しかし、少年は何も言わず、深刻な面持ちのまま視線を外した。自宅に呼び出されたのに、いつまでも口を開かない彼。その沈黙が少女の胸にもどかしさを募らせる。

「レオ?」

 彼女の呼びかけに、少年――レオはようやく顔を上げた。もともと口数の多い方ではないが、今日の彼は明らかにいつもと違う。幼い頃から見慣れた彼の瞳の奥にあるかすかな迷いを少女は見逃さなかった。

「どうしたの?」

 少女がもう一度尋ねると、レオはようやく口を開く。

「父さん…いや、オルテガについて、ルナはどう思う?」

 思いもよらない問いに、ルナと呼ばれた少女は戸惑った。

「えーと…おじさまに直接お会いしたことはないけど、お話を聞く限りはとても立派な方だったと思うわ」

 ルナは言葉を選びながら、彼の意図を探るようにして答える。

 彼女はレオと同じ年に生まれた幼馴染であり、すなわちオルテガが旅立った後の世代だ。彼女にとってオルテガはレオの母ソフィアに幾度となく語り聞かされた『伝説の人』でしかなかった。レオの父という以上の実感はない。

「そうか」

 短く答えたレオは、また黙り込みそうになる。だが、ルナがすかさず話を続ける。

「おじさまがどうかしたの?」

「ルナが父さんのことをどう思っているのか、気になっただけ」

「今日私を呼んだことと何か関係があるの?」

「無くはない」

 曖昧な返答ばかりが続く。普段のレオなら、言うべきことははっきり言うはずだ。それが今日は違う。よほど話しづらい内容なのだろう。しかし、それでも呼び出したということは、覚悟を決めたのだ、きっと。

「レオ、もうそろそろ話して」

 どんな話でもしっかりと受け止める、彼女もそう覚悟を決めた。ふと窓の外を見ると、沈みかけた陽が家々の屋根を赤く染めていた。ルナの真剣な瞳に背中を押されて、レオは一拍置いてうなずいた。

「…昨日、正式に許可が下りた」

 一瞬、時が止まったような気がした。レオの言葉にルナの胸がギュッと締め付けられる。先程、なぜレオがオルテガについて問うたのかをようやく理解できた。彼は魔王討伐の旅に出るのだ。

「お、おめでとう…」

 気持ちとは裏腹に口が勝手に動いた。彼にとってはずっと望んでいたこと。けれども、彼女にとっては、何よりも聞きたくなかった知らせだった。

「…出発は、いつ?」

「次の誕生日に決まった」

 壁の暦表に無意識に目をやってしまう。7月21日だ。今日の日付くらいは当然分かっている。それでも確認せずにはいられなかった。

「来年でどうか、という提案もあった。でも、できるだけ早くしてほしいと頼んだ」

「もう一ヵ月も無いじゃない…」

 うなだれる。いずれ旅立つことはずっと前から聞かされていた。分かっていた。それでも、あまりに早すぎた。声がかすれる。のどが詰まり、言葉が出にくくなる。

「なるべく早く帰ってくる」

「『なるべく』っていつ?」

「………」

 思ってもみなかった問いかけに、レオは言葉を詰まらせた。

「ねえ、いつなの?」

 声が震える。これ以上聞いてはいけないと分かっていても止められなかった。

「それは…」

「おじさまもおばさまに同じことをおっしゃったらしいわ。でも、おじさまは…」

 言葉の先を飲み込む。以前、ソフィアから聞かされた話が頭に浮かぶ。その道を、今まさにレオも辿ろうとしている。結末もまた同様、そう考えてしまうのは不自然ではない。その結末まで同じになるのではないか、そんな不安が彼女の中に渦巻いていた。

 目標にたどり着けず、命を落とす。オルテガの死は無念だった。ルナにとっては『無駄死に』にすら思えた。レオまで同じ道を行ってしまったら――いつまでもかわらないで…そう祈り続ける彼女。

「ルナは心配性だな」

 レオは目を潤ませた彼女の頭にそっと手を添える。

「必ず魔王を倒して戻ってくるから」

「だって…」

 レオの強さも、努力も、誰よりも分かっている。でも、魔王のことは何も知らない。存在すら曖昧な敵。そんな相手に立ち向かうのがどれほど無謀なのか。

 レオの言葉を心から信じたい。でも、心がついてこない。どこにいるのかも分からない敵を追って、世界中をさまよう旅。そんな不確かなものに彼の命がかかっている。

「…レオ、行かないで…」

 とうとう、こらえきれず、ルナはレオの胸に顔を埋めた。静寂が室内に降りた。窓の外では夕焼けの光が、少しずつ朱から藍へと変わっていく。

 レオは動かず、ただそのぬくもりを受け止めていた。

「………」

 レオは何も言わなかった。いや、何も言えなかった。彼女の涙が、自分の服にじわじわとしみ込んでいくのが分かる。体温と混ざって、言葉よりも重く胸にのしかかってきた。ただ、もう一度、彼はそっと手を添えて彼女の髪を撫でる。

「…ごめん。私、すごく嫌な女だね」

 しばらくしてルナは顔を上げ、目元を指で拭った。

「レオが行かなくても、誰かが代わりに行ってくれればいいのに、って思っちゃうの…レオの意思が揺るがないって分かっているのに泣き落としなんかして…どうしようもないよね」

 レオは、無言で首を振った。強くではなく、ゆっくりと。

「やっぱりレオは優しいね…そんなレオが決心したことだもの。しっかり応援してあげなくちゃね」

「そう言ってもらえると助かる」

 ルナに理解をしてもらえたようで、レオは少しだけ安堵の息を吐く。

「まだ何かある? この気持ちが変わらないうちに帰るわ。すぐ揺らいじゃいそうだから」

「あっ…」

「あるの?」

「いや…」

​ レオは言葉を飲み込むように小さく首を振った。

「気にしないで」

 歯切れの悪い返答に、ルナはじっとレオを見つめたが、やがて微笑んで立ち上がる。

「そう? ならいいけど。それじゃ、帰るね」

「送るよ」

「悪いからいいよ」

「いいから。行こう」

「…じゃあ、お言葉に甘えて。お願いね」

 二人は並んで外へ出た。辺りはすっかり暗い。治安の良いアリアハンとはいえ、この時間に少女を一人で返すのは気が引ける。

 並んで歩く帰り道。肩を並べても、ルナの頭はレオの胸ほどにしか届かない。子供の頃からそうだった。けれど、今の二人の背丈の差は、幼い日とは違う意味を帯びているようにも見えた。

 いつもと違って交わす言葉は少なかったが、不思議と気まずさはない。夜風に揺れる花の香りと足音の響きだけが寄り添っている。

 そして、やがてルナの家に着いた。

「レオ、ありがとう」

「ああ、また明日」

「じゃあね」

 ルナは小さく手を振り、家の中へ入っていく。残されたレオはしばしその背中を見送ると、ゆっくりと夜道を歩きだした。​

 ルナを送り届けた後、レオは自室に戻って、椅子にもたれた。

「ふう…」

 深くついたため息には、安堵の色はなかった。話せたことよりも、話せなかったことの方が胸に残っていた。

(…結局、肝心なことは言えなかった。僕は意気地なしだ)

 旅立ちに際し、仲間を募るつもりだ。少数精鋭。信頼できる者で構成された強いパーティ。

 その顔ぶれを思い描いたとき、真っ先に思い浮かんだのは――ルナだった。

 武術に優れ、柔軟な身体を生かした彼女の戦いぶりはまるで舞のように美しい。武術大会では常に上位に名を連ね、その実力は誰もが認めるところだ。

 しかし、彼女は『ルナ』だ。レオにとってはただの戦力ではない。誰よりも大切な人。かけがえのない存在。そんな彼女を、生死をかけた旅に連れていく。もしも途中で命を落とすようなことがあったら――その思いは胸を締めつけ、言葉を飲み込ませた。

(守り抜ける自信が持てないなんて、僕は未熟だ)

 このままじゃだめだとレオはうなだれる。窓の外では、夜の帳がゆっくりと降りていた。朱に染まっていた空はすでに群青へと変わり、街の喧騒もどこか遠く、ぼんやりとしか届かない。部屋の中は静まり返っているのに、胸の奥のざわめきだけが、波のように寄せては返す。

(もし、ルナを連れて行って、何かあったら…)

 彼女の武術の才は誰よりも知っている。それでも、自分の目の届かない場所で、彼女が命の危険にさらされる想像をしてしまった瞬間、言葉が喉に張りついて出てこなかった。

(僕は…守れるのか? 本当に、最後まで)

 たとえ世界を救えたとしても、彼女を失ってしまったら意味がない。そう思ってしまう自分がいた。戦いの覚悟はできていても、彼女を背負う覚悟は、まだ――持ちきれなかった。

 誰よりもそばにいてほしいと願いながら、誰よりも遠ざけてしまった。それが今の自分の限界であり、未熟さだった。窓の外では、風が細く木々を揺らしている。そのかすかなざわめきが、胸の内の揺れと重なって聞こえた。

 ――そしてレオは、その想いを誰にも告げることなく、ただ静かに胸の奥へと押し込めて旅立ちの日を迎えることになる。

bottom of page