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05 Blue apprentice priest

「いらっしゃい、レオ…ついにこの時が来たのね」

 カウンターの奥から一人の女性――ルイーダが穏やかな笑みを浮かべて顔をのぞかせた。胸元まで届く黒髪はゆるやかに揺れ、灯りを受けて艶やかに光る。大きな瞳には、温かな優しさの奥に鋭い洞察力と誇り高さが潜んでいた。

 年の頃は四十代に差しかかる頃合いだろうか。深紅や臙脂を基調としたドレスは、裾や袖口に精緻な刺繍が施されていて、優雅でありながら実用的。腕には金色のブレスレットがきらめき、酒場の女主人という枠に留まらない気高さを感じさせる。

 その立ち姿には、長年にわたって旅人たちを見守ってきた者にしか纏えない風格がある。声のトーンは柔らかく、それでいてどこか母のような安心感がある。

「あなたが旅立つって聞いたときは、なんだか胸が熱くなっちゃって…あの小さかった子が、立派になったもんだわねえ」

 ルイーダとは、レオが幼い頃からの付き合いだ。母のソフィアがよくこの酒場を訪れていたため、レオも幾度となく連れて来られていた。

「あら、ルナも一緒なの。レオの見送り?」

「いえ、私も一緒に行くことにしました」

「えっ、そうなの? これまで聞いてきた話と違うじゃない。レオと一緒に行くのは結局諦めたって…」

「そ、それはレオにだけは絶対に内緒って言ったじゃないですか…!」

 レオには旅について相談をしたことは一度もなかったルナだが、ルイーダにだけは胸のうちを打ち明けていた。ルナもレオ同様に悩んでいたのだ。

「ああ、ごめん、ごめん。でもいいことよ。一緒に行った方がいいわ。王子様をちゃんと捕まえておきなさい」

「またそうやってからかうんだから…」

 ルナは頬を紅潮させながら膨らませる。そんな二人のやりとりをレオは微笑ましく見つめる。

「レオにとっても仲間が多い方がいいと思うし。レオもそう考えて私に相談をしてきたんだしね」

 レオはうなずく。

「それで、候補は見つかりましたか」

「まあ、全くいないってわけじゃないんだけどさ。見てのとおり、こんな感じなのよ」

 ルイーダが顎で指し示した店内には、どこか殺伐とした空気が漂っていた。酒と汗の混じる臭いが充満し、荒っぽい風格の男たちがレオたちを無遠慮に値踏みするかのごとく見ている。

 西の外れにあるこの酒場は、かつては冒険者たちが戦友を求めて集う場所だった。しかし、アーク10世が内政重視の政策を取って以降、年々治安が悪くなり、いまや荒くれの集う場所になりつつあった。

「こんな有様だから、オルテガさんも一人で旅立ったのかもしれないね」

 ルイーダは深くため息をついた。

「店内を見させてもらっていいですか」

 レオたちは荒れた店内の隙間を縫って歩いていた。そのとき――

 

 ドスッ…!

 

「ぐっ…」

「レ、レオ!?」

 すれ違いざま、座っていた男のひとりが突然立ち上がり、レオの鳩尾に拳を叩き込んだ。不意を突かれたレオは膝をつく。

「な、何するのよ!」

 ルナが男に詰め寄るも、男はそれを無視する。

「ここはな、優男が来るところじゃねえんだよ」

「ちょっと、あんた! なにやってんだい! 出てってもらうよ!」

 カウンターからルイーダの怒声が飛ぶ。

「追い出せるもんならやってみな!」

 男は、がははと笑いながら、椅子にふんぞり返った。

「レオ、大丈夫!?」

 ルナが心配そうに駆け寄る。レオは顔を歪めながら息を整えていた。すると――

「すみません、失礼いたします」

 背後から控えめな声がした。青い修道服を着た少女がレオの前にひざまずき、両手を組んだ。

「………ホイミ」

 彼女がそう呟くと、淡い光がレオの身体をまとい、腹部の痛みがやわらいでいく。

「…痛みが引いた」

「い、今のは…?」

 きょとんとしている二人に少女は穏やかに微笑んだ。

「簡単な回復呪文です。しばらく安静にしていてくださいね」

 世界には大きく分けて二種類の人間がいる。肉体で戦う者と呪文を操る者だ。さらにそこから細分化され、素手で戦う武闘家、剣を使う戦士、攻撃呪文を操る魔法使い、そして回復や支援に長けた僧侶などがいる。少女が唱えたホイミはその中でも補助呪文の基本であり、生命線である。

「君は…?」

「僧侶見習いです」

 尋ねたレオに対して少女は深く頭を下げた。清楚な雰囲気と礼儀正しい態度は、さっきの荒くれ者たちとはまるで別の世界の人間のようだ。

 そこへルイーダも駆け付けた。

「まったく、油断も隙もないわね。ごめんねレオ、あんなのばっかりで」

「気になさらないでください」

「歩ける? 少し上で休んでいきなよ。ちょっと話したいこともあるしさ」

 ルイーダに案内されて階段を上がると、そこは一階とは打って変わって静かな空間が広がっていた。床は磨かれ、窓からは木漏れ日が差し込んでいる。粗野な声が飛び交う下階の喧騒が嘘のようだ。

「大丈夫ですか?」

 少女が心配そうにレオに話しかけた。

「もう一度ホイミを唱えましょうか?」

「いや、もう大丈夫です」

 ホイミは簡易的な呪文であり、痛みは和らいでも完全な回復には至らない。それでも今のレオには十分だった。

 そのやりとりを見届けながら、ルイーダが木製のテーブルに湯気の立つココアを3つ置いた。

「ごめんなさいね。ウチの客ったらあんなのばっかりでさ」

 ルイーダはため息まじりに続ける。

「昔は剣の達人だとか、それこそ国を背負って旅に出るような立派な人たちも来ていたのよ。ただ、最近はああいうゴロツキばっかりでね…それでも客には違いないからそこまで強くは言えないんだけどさ」

 彼女の言葉には、自嘲とそれでもこの場を守ろうとする女主人としての矜持が滲んでいた。

「でも、ちょうどよかった。レオにこの娘を紹介しようとしていたんだよ」

 ルイーダが目を向けた先には、先程レオを癒した少女がいる。

「彼女はミルキー・ウェイ。僧侶見習いでね、仲間を探している最中なの。気立てもいいし、腕も確かだよ」

 ミルキーはそっと頭を下げた。深い青の修道服に身を包み、胸元には十字の印が白糸で刺繍されている。腰まで流れる髪は淡く光を受けて揺れ、紅玉を思わせる瞳は澄んでいた。

 その姿は清楚でありながら、どこか人ならざる神秘さを漂わせている。まさしく神に仕える者の気配をまとっていた。

「先程は助かりました。レオに代わって改めてお礼をさせてください」

 ルナが丁寧に頭を下げると、ミルキーはにっこりと微笑んだ。

「そんな…お役に立つことができてよかったです」

 ミルキーは恥ずかしそうに顔を赤らめた。礼儀正しく、誠実な気配がその仕草からも感じられる。

「ミルキーさんはなぜこんなところに?」

 レオの問いかけに、ミルキーは戸惑いながら答える。

「修業の旅をしているのですが、非力な私だけの一人旅も徐々に厳しくなってきまして…仲間を探すためにこの酒場を訪ねました」

 彼女の細身の身体を見れば、ひとりで魔物と対峙するのは確かに難しそうだった。

「ルイーダさんの紹介なら間違いなさそうだし、私達と一緒に旅をしませんか?」

「よろしいのですか?」

「ねえ、レオ?」

「回復呪文を使えるのは心強いな」

 ルナの提案にレオは迷いなくうなずいた。

「ありがとうございます。では、ぜひご一緒させてください」

「これで決まりね。彼はレオ・セーヴ。そして私はルナ・スフィールよ」

「レオさんにルナさん、よろしくお願いいたします。私のことはミルキーで結構です」

「会ったばかりの恩人を呼び捨てにするのは気が引けるな」

 レオの律義さは祖父ライアンの影響である。無礼だと非難されがちだった父の二の舞を踏まないように、礼儀作法はことあるごとに厳しく叩き込まれていた。

「それなら愛称にしてみる? ミルキーだから、例えばそうね…ミルクとか」

「ミルク…確かにかわいらしいですね。気に入りました。ぜひそう呼んでください」

 ふっと場の空気が和らいだ。言葉を交わすたびに、緊張の糸が少しずつほどけてゆく。ルイーダの気遣いもあって、三人の間に穏やかな時間が流れている。湯気の立っていたココアはすっかり冷めきってしまったが、心には温かさがあふれている。肩の力が抜けたことで、それぞれが刻一刻と近づく『旅立ち』へと向き合い始めていた。

「そろそろ出発しようか」

 レオの言葉に、ルナとミルクがうなずいた。三人はルイーダとともに階下へ降りた。ルイーダに別れの挨拶をして酒場を出ようとしたところで、入口で待ち構える数人の男たちに行く手を阻まれた。

「待ちな。ショバ代きっちり払って貰おうか」

 先程、レオを殴った男が通せんぼをする。

「ちょっと、あんたたち、いい加減に…」

 ルイーダが注意しようとしたところに、レオが割って入る。

「邪魔だ」

 レオの声が低くなった。さきほどまでの柔和な表情は消え、鋭い眼差しが男たちを射抜く。

「レ、レオさん…」

「安心して。さっきは不意を突かれただけよ。レオはあんな奴には負けないわ」

 ミルクの心配をよそにルナは安心しきっている。

「なんだと!? もういっぺん言ってみやがれ!」

「邪魔だ」

「てめえ…また地面に這いつくばらせてやる!」

 男が拳を振り上げ、再び鳩尾を狙う。その男の太い腕をレオは軽くいなした。

「なっ…!?」

「殴るっていうのは、こうやるんだ」

 体制を崩した男の鳩尾にレオの左拳が突き刺さる。

 

 ズドンッ………!

 

 ものすごい衝撃音とともに、男の巨体が地面に倒れ込む。

「す、すごい…」

 ミルクが嘆息の声を上げた。

「な、何者だあいつ…」

「鉄壁のスパイクをたった一撃で…」

 酒場中が静まり返った。直前まで嘲笑や怒声が飛び交っていた空間が、今や息を潜めたような静寂に包まれている。

 レオは見た目だけを見れば、優しげで華奢な青年にすぎない。穏やかな眼差しと柔らかな物腰――その印象に惑わされた者は、彼の本当の強さを見誤る。スパイクと呼ばれた男もきっとそうだったのだろう。

 しかし、アリアハンの英雄の息子であるレオの実力は、ただの血筋にあぐらをかいたものではない。鍛錬と戦いの中で磨き上げた力は、見かけだけで測れるものではなかった。鉄壁とあだ名された男を、たった一撃で沈めたその力こそが彼がこれから歩む旅路の礎となるのだ。

「レオ、悪かったわね。せっかくの旅立ちだっていうのに」

 ルイーダの声は、苦笑とも憂いともつかぬ調子だった。若者の晴れ舞台に、こんな小競り合いを挟ませてしまったことを悔やんでいるのだろう。

「いえ、仲間を見つけてくださって助かりました」

 レオは柔らかく微笑み、いつもの調子に戻っている。先ほどまでの殺気はすでに消え、凪いだ海のような落ち着きが戻っていた。

「それじゃ、気を付けて行ってくるんだよ」

 ルイーダは彼の姿をしばし見つめ、そっと声をかける。

「…絶対に死んじゃダメよ」

 その一言には、酒場の女主人として、そして旧友の息子を送り出す者としての、重い祈りがこもっていた。

「はい」

 レオは短く、しかし力強く答えた。

「行ってきます」

 その声を最後に、彼は扉を押し開ける。きしむ音とともに、外の光が差し込んだ。

「ミルク、行くわよ」

「は、はい」

 ルナに促され、ミルクも外へと続く。そのまま三人は街の入口へと歩を進めた。

 

レオさん、お強いんですね」

 街の門に差し掛かった頃、ミルクが呟いた。まだほんのりと頬を紅潮させ、レオに尊敬の眼差しを向けている。

「レオはオルテガおじさまの息子なのよ」

 ルナがどこか得意げに言った。まるで自分のことのように誇らしそうだ。

「あの英雄オルテガ様の…」

 オルテガの名は、アリアハンのみならず他国にまで知れ渡っている。たった一人で千の魔物を退治した――そんな伝説めいた逸話が今もなお語られるほどだ。

「では、レオさんが『勇者様』なのですね」

「そんな立派なものではないよ」

 『勇者』。幾度となく呼ばれてきたその二つ名に、レオも、そして隣にいるルナも反応を返すことはなかった。

「ただ、父さんの敵を討たなくてはならないから」

 レオにとっての魔王討伐は、世界を救う崇高な使命というわけではない。たった一つの、個人的な動機。父の敵を討つ――それが、彼の旅の目的だった。

「私にできることは多くないですが、少しでも力になれるように精一杯努めます」

「そう言ってもらえると心強い」

 儚げな印象とは裏腹に、ミルクの心には強い芯がある。さすがはルイーダが推薦してきただけのことはある。

「よかったじゃない。彼女、頼りになりそうよ」

 ルナがそっとレオに耳打ちする。レオは呼応してうなずいた。その胸中には、仲間たちをまとめ、導くリーダーとしての責任が芽生えていた。

「準備は大丈夫?」

 ルナがミルクに確認を取る。

「はい、大丈夫です」

「よし、出発だ」

 吹き始めた風が、三人の衣をかすかに揺らす。アリアハンの街並みはゆっくりと背後に遠ざかっていく。

 レオたちは、それぞれの思いを胸に、広大な世界への最初の一歩を踏み出した。

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